ねるまで昼

おいしいクッキーだけ

あるけない

まっすぐ歩くのは難しい。誰かと歩くのも難しい。誰かとまっすぐ歩くのは、きっととんでもない困難だろう。わたしはいま、悪魔の役をもらった女優の気持ちで街を歩いている。足元を見下ろす。爪先がはげた靴を履いていると、だらしなく見られるらしい、とだれかが耳の奥で言う。

自分の足元を見てすぐに、あの人の切り取られた足を見上げるたび、喉の奥がぎゅっと締まるような気がしたことを思い出す。わたしは何度もその感覚を重ねた。そして想像した。腰のしなり腕の置き方首の角度目の色、壁に隠されてなにひとつ定めることはできなかったけれど、想像している間は、自分もまるで生きているようだと思えて、なんだか良かった。ほんとうは、なんだか良かったと言いたかった。でもその人には(想像でしかないが)耳がなかったし、わたしには(こちらは正しいことだが)声がなかった。なので、これは音のしない妄想である。

声こそないものの、わたしは喉も舌も、さらに鼻も持っていたので、それが金属の味のするやわらかい液体だということはわかった。それが流れ込んでくるのはいつもおなじタイミングだった。間違えば罰される。手が振り下ろされるたびに、身体の中がぷつりと切れた。この間も、わたしは生きているようだなあ、と思えた。

膝と、つま先の向きしか、その人の表情を想像する方法はなかった。わたしは、ずっとずっと見上げていた。変拍子の曲を聴いて、そのリズムが掴みきれないときの、迷子みたいな顔を見たいと夢想した。わたしを見てほしいと思った。でもわたしは、その人の目も鼻も口も耳も知らなかった。知ろうともしなかった。知ったら壊れるとわかっていて、わたしは壊れることが恐ろしかった。でもいま、壊れている自分の指先をみると、あのとき壊れればよかった、と思う。同じく壊れるなら、彼の温度を知って壊れるべきだった。

もう遅い。靴を履き替えなければいけない。もう歩けない気がするけど、わたしは悪魔なので、飛ぶように歩かないといけない。ふらふら歩いて、そのうちたぶん、わたしの部屋のドアを叩きます。あなたはどうかお元気で。眠ったころに思い出します。

残念だがこれもまた

「運命だと思いますか?」

眠るたびに同じような夢をみる。まだその日はやってきていなくて、だからわたしはその日に向かってひたすら走っていて、だけどやっぱりその日がきて、だけど、その時間が続いてくれる。こことは違って。終わってしまったら終わりだ。なにを言っているのかと思うけど、いまのわたしを表す言葉はそれくらいしか思いつかない。さみしい、と四文字にするのが惜しくて悔しくて、無駄な言葉を重ねる。行かないで、わたしはずっとここにいるのに、と、ニットの袖をのばしながら震える。

わたしはすぐ盗む。誰かの読む本、観る映画、聴く歌、あとはほんとうのなまえとか住むところとか昔付き合ってきた人間とかにまつわる情報、を、机の上から偶然見えた携帯の画面から、なにげない会話の端々から、だれかの噂話から、バレませんようにと祈りながら盗む。なんで盗むのか、それは一人きりになったときに、誰かを自分におろして、どんな気持ちでこれに触れたのだろう、どんなふうに生きているのだろうと想像を巡らせたいから。手ぐせ。気持ちの悪い習慣。治る余地のないわたしらしさ。盗まなければ意味がない。知りたいってグロテスクなことだから、わたしはなにも知りたくないのですよという顔をして、ギリギリ立っていられる。

食べることと買うことがやめられない。たいした量でも額でもないけれど、着実に体は重くなり、財布は軽くなっていく。生きている!という感覚が遠い。なにをしても虚しい。虚脱。鋭い痛みを想像してみる、たぶん生きてると思えるだろう、けど、自分で自分にそれを下す勇気が出なくて、そんなやつが痛みを希求する権利はないでしょうと思う。

あーあ、

ブログすら書けなくなってしまった。ポエムみたいなお話みたいなやつ、でストレスを発散することもできない。うずくまってうめいていたら一日が終わってしまう。本も読めないテレビも見られない、なのに道ゆく人に毒づいてみたりして、なんなんだ?と思う。寒さが悪いのか。寂しさが悪いのか。これを埋めるにはどうしたらいいのか。脚本を書くしかないだろうねとわかってはいるけれど、もう自分の心が動かせない。頼むからブログ読まないでください誰も。助けてほしいなんて言わない。殺してほしい。つかれたから。

生体模写

細い光が部屋に落ちてきて目が覚めた。ベッドの上には私の部品という部品が散らばっている。指、そこからこぼれ落ちた指輪、耳につけていた石、足の爪。それらをひとつひとつ拾い集めないと、きょうの朝は始まらない。

 

昨晩なにがあったのか、わたしの頭は覚えていないが、身体が全部覚えている。布を掴んでいたことを覚えている、指輪がベッドのフレームに当たったときの音を耳は覚えていて、石も指輪も外れた瞬間のことを覚えている。取り付けるたびに、それらをすべて思い出すことになる。叩く手の方が痛いなんていうのは嘘だ。いつだって傷が残るのはその手が振り下ろされた先に決まっている。いちどだってお前の日常がその手のせいで崩れたことがあったか、その手がお前の日常をつくっているのではなかったか。などということは、こうして朝、からだが自由になるまで考えることができない。日が落ちているうちはただ、うつ伏せになって、または顔を背けて、必死にそれに耐えるだけになる。噛みしめすぎた歯にはヒビが入っている。

 

わたしは置き物になる。痛みはもうわからなくなってしまった。静かに、でも確かに、その力が顔に腕に加わるとき、腹の中が熱くなるような気がする。そのときだけ、ひとのやわらかい部分に触れているような気になれる。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、私は世界に触れられる。そのためなら、あざのひとつやふたつは我慢しなければいけない、ような気がする。

きたない

風が前髪を撫でる。私はふたりを背後に感じながら、ぼんやりと外を眺めていた。振り返ろうかと思ったその瞬間、大きな物音を立てて鳥が窓硝子にぶつかって、ベランダに落ちた。そのとき私の脳裏に浮かんだのは、ショートケーキを手で掴み、床に落とす自分の姿だった。

 

映画監督を気取った彼は、薄いレンズの向こうで目を細めながら、言った。「こう、ここでさ、踏んでほしいんだよね。かかとで。」「かかとでですか?」「うん。靴のかかとで。」

彼が彼女に無理な要求をしているのを見るのは今回が初めてではない。というか、無理な要求をしているのを見なかったことがない。頭から水をかぶってくれとか、ガーベラの花びらをちぎって口に入れてくれとか、なんだかよくわからないことを彼女に求めては、受け入れられている。私はずぶの素人だし、いろんな映画を観ているわけじゃない。だから、彼の撮りたいそれらの奇怪な行動が、芸術的価値があるものなのかそうでないのか、皆目見当もつかない。ただひとつ言えるのは、彼の作品は一度も賞をとったことがないということだけだ。

今回は彼女がヒロインで(もちろん彼女以外がヒロインの作品を撮っているところを私は見たことがない)、なにやらショートケーキを踏みつけるシーンを撮りたいらしかった。いったい話がどう転がったらそんな場面が生まれるのか、脚本を何本か書いたことがある程度の経験しかない私にはさっぱりわからないが、とにかく彼女がヒールでケーキを踏んづけることだけは決まっているらしかった。その証拠に、彼女が何度も話の筋を確認しているというのに、彼の答えは要領を得ていない。ケーキ、かかと、無垢な笑顔。彼はまるでその3単語しか知らないロボットみたいに、ワンシーンを繰り返し繰り返し熱っぽく語り、そのたびに彼女は、「で、私の役はなんて名前なんですか。」と繰り返し訊くのだった。

 

さて、私がそんな映画監督気取りの彼を日がな注視しているのは、彼のことが好きだからなんかではないということを言っておかないといけない。だいたい、眼鏡をかけている男は好きになれない。8月なのに半袖シャツを着ないで長袖をまくっているのも気に入らない。好きなんかではないのだ、本当に。では、なぜこんなに熱心に話を追いかけているのか。

花の刺繍の入ったぺたんこの靴。腰骨のかたちを拾わない、ゆるいシルエットのワンピース。小さな白いファーストピアス。茶髪から染め直した青っぽい黒髪。彼女は彼にはもったいない。素直にそう思う。赤いピンヒールなんかより、今履いているその靴のほうがずっと似合っていると思う。その足で、ケーキを踏むのではなく、水たまりを飛び越えたらどうだろう、と思う。きっといつものようにドジを踏んで、靴もワンピースもびしょ濡れになるだろう。でも、きっと彼女は無垢に笑うだろうし、ケーキは生ゴミにならなくて済む。そのほうが、私は、あくまで私は幸せだなと思う。

「で、そのシーンからもう撮っちゃおうと思うんだよね」「もう?今から?」「うん。もう用意してあるんだよね。実は」

気持ち悪い男だ。断られたら一人しおらしくケーキをつつく覚悟までしてきたのだろうか?どうせコンビニの安いケーキに決まっている、たいして写りが良くなさそうな。でもやっぱり、彼女は受け入れる。まるでそれが気持ちいいことみたいに、楽しそうに頷くのだ。見なくてもわかる。何度も何度も、飽きるほど見た。

「じゃ、外いこう」

なぜ青空の下ケーキをピンヒールで踏むのか。理解できない。さぞ高尚な作品なのだろう。どうせ趣味の悪い靴を用意してきたに違いない、彼女に似合うどんな靴を持ってきたのか、

と、硝子に何かがぶつかる。

「すずめだ。」

気づけば、ふたりは私の前にいて、窓から身を乗り出し、ベランダで気絶している鳥を眺めていた。

「生きてる?生きてるかな」「死んでるかもね」「気絶してるだけじゃない?動いてるし」「あ、ねえ、話したことあったっけ、俺昔、鳥飼ってたことあってさ…」

私は、振り返って、机の上に小さなケーキを見つけた。やっぱり黄桃、それも缶詰のが乗った安いケーキだ。偉そうなことを言うなら、苺ショートくらい用意すればいいのに。彼女には、それが似合うとどうしてわからないんだろう、そう思うと、頭に血が上った。ケーキを掴んで、床に叩きつけたい、と思った。ケーキがぐちゃぐちゃになれば、ふたりもいつかぐちゃぐちゃになってくれるんじゃないかと、まったく理性的でないことを思った。そして、私は絶対に手を汚したくない、とも思った。私はふたりにとって、存在していないのと一緒だ、ということを忘れてはならなかった。オレンジと白が混ざっても汚いだけだ。混ざるなら、赤と白でなくてはいけない。汚いということを、彼も彼女も知るべきなのだと思って、私は、静かに机を傾けた。

分かったつもりで

階段下収納に悪魔を飼いはじめて、もう半年になる。名前はない。あんまり喋らないし、男なのか女なのか、べつに性別とかはないのか、知らない。たまにポン菓子をあげると喜ぶけれど、夜行性なので昼間はずっと眠っている。わたしは夜眠ることにしているので、生活時間が被らず、いまだにその生態を掴みきれていないのだ。

もしかしたら自称「悪魔」のヤバい人間なのかもしれない。と思う。階段下に他人が住んでいるのは人間だろうとそうでなかろうとそこそこ怖いし、大家さんにバレたら大変なことになる気がする。でも、わたしはひとりでいるのが大嫌いだ。夜眠るのに、だれかの気配を感じていないと不安で仕方ない。と同時に、とんでもない面倒くさがりでもある。まめに他人とコンタクトを取ってご飯を食べて一緒に暮らして、なんて想像しただけでめまいがする。ペットを飼えるような人間じゃない。だから、たいして喋らず食べ物をあげる必要もない「悪魔」はわたしにとって都合がよかったのだ。

一緒に暮らしている、ではなく飼っている、なのは、本人がそう言われることを望んでいるからだ。首輪をつけてほしいというのでペットショップで適当にあたりをつけて、深い緑色の革の輪っかをプレゼントした。たしか犬用だったように思うけど、もう覚えていないし、そんなことはどうだっていい。大事なのは、彼(あるいは彼女)がわたしを主人と呼ぶことだ。同棲とか同居とか、そういう言葉もあるのよと教えてあげたのに、それは気に入らなかったらしい。わたしの言いなりになる代わりに、なんの責任も負いたくないのだという。悪魔が背負う責任って、なんだかとっても重そうなので、わたしはひとこと「わかった」と言って、その関係をみとめた。

彼(ないし彼女)を飼い始めても、わたしの生活はほとんど変化しなかった。朝起きて、パンを焼いてインスタントのスープに浸して呑み込んで、なぜかいつも違う場所に落ちている鍵を探して拾い上げて出かけて、コンビニのサラダと固くなっているおにぎりを食べて、帰ってきて鍵を開けて(この時点ではいつも同じ場所に置くつもりなんだけど、やっぱり朝になると見つからなくなる)、風呂にお湯をはっているあいだに皿を洗って、適当に夜をやりすごす。愛すべき普通、安寧、安定した暮らし。起きた変化はただひとつだけ、毎晩悪夢に苦しむようになってしまった。息ができない、殺される夢を見る、なんてまだかわいらしくて、昨日会ったばかりの人と寝る夢、もう何年も会っていない昔の恋人が事故に遭う夢、そういう妙に生々しくて、起きたとき身体が重くなっているような夢ばかり、毎日繰り返し見る。荒唐無稽な設定の夢なら、朝日を浴びればリセットできるのに、ありえなさそうでありえそうな夢だとそれがままならない。わたしはあの人と寝たんだろうか、とか、彼はいま結婚していたはずだけど、家族は、とか、馬鹿みたいにぼんやり考えていると、午前中が終わってしまう。

生活に影を落としそうだ、と思って、一度「悪魔」に訊いたことがある。夜中に起きだす彼(彼女)に合わせるため、金曜の夜に水風呂に入りながら起きて待った。

「ねえ、あんたが見せてるの?」

「なんの話?」

「ここのところ毎晩、なんだか妙な夢ばかり見る。あんたが来る前は夢なんか見ないほど眠れていたのに」

「それ、嫌な夢?」

「え?」

「嫌な夢なの? わたしは、お手伝いすることしかできないけど」

「何を手伝うって?」

「ひとりは寂しいんでしょう。夢の中くらい、だれかと寝たっていい。いまだに許せないんでしょう。だったら痛い目見せればいいだけ。かんたんでわかりやすくて、それって幸せでしょう?幸せになろうよ

「あんたがやってるなら、早くやめてね。仕事ができなくなる」

「じゃあ今夜が最後ね。いちばんいいやつ見せてあげる。ずっと飼い主でいてね」

その晩、わたしは夢を見た。わたしは、階段下で誰かの足音をきいた。細いかかとの音、やわらかい布の音。それから服の擦れる音。誰かの苦しそうな声を、泣きそうな声をきいた。そのままわたしは、暗がりでじっと座っている悪魔に手を伸ばして、その首輪をひっぱった。「ねえ、いちばんいいってこんなもの?」悪魔は首を振った。「まだだよ」わたしは、誰かの声をきいた。誰のものかはわからないけど、言葉だけははっきり届いた。「あの子、死んだんだってね」わたしの名前を呼ぶ声がして、瞬間、すべてわからなくなった。

 

もうなにも憶えていられないと思う。だからぜんぶジュースみたいにぐちゃぐちゃにして絞って、残ったものだけ瓶に入れないといけない。時間がないの。急いで首輪を買って、ちゃんと靴紐は結んで、走ってもはぐれないようにして。

 

天使の頭ふたつぶん

冬の寒さがわたしに想起させるものはすべて、瓶の中に入れてコルクで封をしてしまったビー玉みたいなものである。一つ一つを取り上げると、どれもとりとめのないものだ。およそ半年ぶりに髪を切った日のこと、あるいは、ナッツのたくさん入ったチョコレートを独り占めした時間。通販で買ったスカートを一週間かけて受け取ったこと。映画館までの二時間半に繰り返し聴いた曲。どれも閉じていて、それが本当のことだと誰一人証明してくれない。わたししか知らない、わたしだけのガラス玉。

少しだけ空気を吸いやすくなったころ、わたしはその瓶を誰かに見せたいと思った。証明してほしいわけじゃない、わたしはこんなものを棚の奥にしまっているのだと、知ってほしくなったのだ。地味だけど、この宝物を、きれいだと言ってもらいたかった。わたしは慎重にならねばならなかった。瓶が割れたら、せっかく集めたものがすべてバラバラになってしまうから。手先が不器用な人ではいけない、好奇心が強すぎてもいけない。そういう人はきっと、笑顔でこれを割ってしまうだろうと考えた。だから、詮索しすぎず、しかし興味を持ってくれる君にだけ、見せることにした。

結論から言うと、この決断は正しく、また同時に間違ってもいた。君は薄暗い部屋で、机の上のライトが照らす瓶を見つめて、いいね、とだけ言った。それだけで十分だった。問題は、その反応に満足して、瓶をしまい忘れてしまったことだった。翌朝部屋の鍵を開けたわたしは、瓶の中身が床じゅうに散らばっていることに気づいて、ひどく狼狽した。色とりどりのガラス玉が広がっている光景に気を取られ、しばらく、机に向かっている女に気づかずにいた。

「きれいなんだよ。落とすところ。ほら」

女がこちらを向いて声をかけたとき、はじめてその存在を認めたわたしは、一瞬、瞬きを忘れた。次の瞬間、趣味のいいワンピースを着た女が、床のビー玉を拾い、高く持ち上げて、落とす。拾う。落とす。落とし続ける。繰り返される無意味な動きにあっけに取られていると、彼女はこう言った。

「ちゃんと撮っておいてね。そうでないと忘れてしまうよ」

馬鹿なことを言うものだと思った。わたしは全て覚えているというのに。しかし、繰り返し床に叩きつけられる瓶の中身がいつまで無事かはわからない。だから、とりあえず、ポケットに入っていた携帯でその様子を収めた。赤、緑、青、黄色、バラバラと床板に当たって大きな音を立てる。女の手に集められると、ガチャガチャと擦れる音がする。耐えられない、と思った。でも、綺麗だ、とも思った。こんなふうにバラバラ落ちて、全部散らばってしまってもいいかもしれないと思った。それくらい、ワンピースの柄と降ってくる色はまぶしかった。女は好奇心が強いわけでも、手先が不器用なわけでもなかった。ただ、幼いだけだった。瓶を割るのではなく、コルクを外されることもあるのだ、と、画面越しにタータンチェックを見つめながら、私は瞬きした。

 

それからしばらくして、わたしは爪をりんご飴色に塗った。全て塗り終わったあとで、ビー玉の中身が瓶に戻り、わたしは自由を手にしたのだ、と、誰に言われるでもなく知ったのだった。

冷や汗をかく

「全部偽物です。だから気持ち悪いんです。」

食品サンプルを見るのが好きだ。やっているのか怪しい中華料理店のテカテカしたチャーハン、なぜかフォークが浮いているイタリア料理店のパスタ、泡まで固められた喫茶店のクリームソーダ。ケーキの断面や麺の光沢まで再現していて、樹脂でできているとは信じがたい出来のものばかりだ。当然食べられないのだけど、ときどき私は、本物よりこっちを食べたい、と思うことがある。ソフトクリームの完璧な形のてっぺん。うどんのつゆから半分だけ顔をのぞかせるかまぼこ。パフェにかかるチョコレートソースのとろけた部分。本物の一番魅力的な瞬間を閉じ込めたサンプルたちは、次の瞬間崩れてしまう本物よりずっときれいだ。大袈裟な言い方に聞こえるけれど、そこに永遠が存在する、と思う。味を知るために食べるのではない。私は、美しいかたちを知りたくて食べるのだ。だから、溶けて混ざってばらばらになっていく本物にがっかりするより、隙のない偽物を一口で食べるほうがきっと、幸せなのだと信じている。

彼女はバターがホットケーキの表面を滑り出すのをじっと見つめていた。溶けきるまで放置する主義らしい。「バターにもバターなりの意志があります。」それが彼女の言い分だ。バターの行く先をフォークで定めることは、神を冒涜することと同義なのだと言う。「なんの神様?」「わたしの神様です。」深入りするのはやめておくべきだと判断した私は、窓の外を見遣る。青信号が点滅する大通りの横断歩道を、学生服を着た少年が走っていくのが見えた。私は目を閉じた。

どうして見知らぬ彼女と美しくかさなったホットケーキを囲んでいるのか。それを説明するには数時間ほど遡って話さなければならない。私は今朝、電車でこの街へやってきた。この街は数え切れないほど訪れているが、明るい時間に出歩いたことはこれまでなかった。こんな晴れた日に何もしないのはもったいない。昼過ぎに用事があるから、それまで街じゅうの食品サンプルを見て回ろうと思い立ったのだ。全国チェーンのファミリーレストラン、まだ開店していない寿司屋とまわり、この喫茶店にたどりついた。ガラスケースは埃をかぶっていたが、中のサンプルたちは劣化していなかった。オレンジジュースには赤と白の縞模様が入ったストローが刺さっている。上の段から舐めるように眺めて、ケースの最下段、左端にホットケーキを見つける。きつね色で丸いケーキが五枚重なっている。これだけなら他の店とたいして変わらないのだけど、私はその上に乗ったバターとシロップに釘づけになった。あめ色とクリーム色がきれいに溶けて、いびつに広がっている、まるで宣材写真のような、ホットケーキと言われて誰もが思い浮かべるような完璧な姿だったのだ。もしかして食べられるのではないか、と思い見つめてしまうほどに。もちろん何秒、何十秒、何分眺めてもそれは完璧なままそこにあった。そのことに言いようのない満足感を覚えた私は、しかし見知らぬ女に話しかけられ、ふと我に帰る。「もしかして、ホットケーキ食べにこられたのですか」「え?」「もしよかったら、一緒にいかがですか。半分ずつ」

聞けば、彼女は無類のホットケーキ好きで、いつかこの店のものを食べてみたかったのだという。たしかにひとりで食べるには少しためらわれるボリュームだ。あなたはホットケーキを熱心に見つめていたので、と言われたから、おそらく自分と同じ種類の人間だと認められたのだろう。食品サンプルに興味があるだけなのだとは言えず、奇遇ですねなどとうそぶきながら彼女と向かい合わせに座っている。バターはまだ溶け切らない。「誰かの行先を決めようだなんて、傲慢だと思いませんか。」厄介そうな話だが、曖昧に笑って続きを促す。「だから、バターのことはバターに任せるんです。わたしはわたし、バターはバター。」「ナイフを入れるのは、だけどあなたですよね?」「ええ。わたしのことはわたしが決めます。」「シロップはどうするのですか?」「こんなときのためなのです。」彼女はいたずらっぽく笑った。目が合う。逸らされない視線、視界の片隅で彼女の着るラベンダー色のカーディガンがぼやける。「私ですか?」「はい。わたしはあなたに頼みたい、と決めたのです。」

バターの染み込んだケーキにシロップを垂らす。広がる、広がって側面を伝ってさらに落ちる。バターは跡形もない、白い皿が糖で汚れていく、やはり美しさのかけらもない、と思う。知らぬうちに私は、ジャケットの裾を握りしめていたことに気づく。彼女は嬉しそうに礼を言ってナイフを持ち、小皿にケーキを取り分けていく。黄色っぽい生地の断面がぼろぼろと崩れていく。破片が皿にこぼれ落ちる。切り取った扇型のケーキで皿のシロップを撫でる。シロップが皿に塗りつけられていく。もう何も聞こえない。食べないと怪しまれる。なんとか自分の小皿に取り分け、フォークを入れる。目を閉じて咀嚼する。のみくだす。目を閉じると、周囲で食器がぶつかり合う音が耳の奥に響く。耐えられない。「すみません、バター、もらえませんか。」店員を呼ぶ彼女の声がする。私は落ち着こうとフォークを置いて目を開ける。瞬間、目にしたのは、バラバラになったケーキと、テーブルクロスに落ちた食べかすと、口いっぱいにケーキをほおばって控えめに笑う彼女の幸せだった。幸せを見ている、としか言いようがなかった。たとえ対象がどんな姿になっても食べ物を食べ物として楽しむことを賛美しているのがわかった。食べることに純粋な楽しみを感じているように見えた。かたちは、崩れてしまっては美しくない。美しくないのに!私はたまらなくなって、財布からお金を取り出すと、ギンガムチェックのテーブルクロスにそっと重ねて、逃げるように店を飛び出した。彼女は全く気づいていないようだった。

崩れることは恐ろしいことだ。それを避けるために、私は今日この街へやってきた。普段は夜だけ、あの子の完璧な姿を愛するためにここに来ていた。だけど、美しくあるべきなのは姿だけではなく結びつきなのだと知った。知らせてくれたのもあの子だった。だから今日は明るいうちに会うのだ。そしてきちんと教えてあげないといけない。完璧な私たちがどれほど素晴らしいのか、完璧でないことはどれほど恐ろしいのかを。べたつく首元をハンカチで拭って、私は地下への階段を降りるため、歩き出した。