ねるまで昼

おいしいクッキーだけ

きたない

風が前髪を撫でる。私はふたりを背後に感じながら、ぼんやりと外を眺めていた。振り返ろうかと思ったその瞬間、大きな物音を立てて鳥が窓硝子にぶつかって、ベランダに落ちた。そのとき私の脳裏に浮かんだのは、ショートケーキを手で掴み、床に落とす自分の姿だった。

 

映画監督を気取った彼は、薄いレンズの向こうで目を細めながら、言った。「こう、ここでさ、踏んでほしいんだよね。かかとで。」「かかとでですか?」「うん。靴のかかとで。」

彼が彼女に無理な要求をしているのを見るのは今回が初めてではない。というか、無理な要求をしているのを見なかったことがない。頭から水をかぶってくれとか、ガーベラの花びらをちぎって口に入れてくれとか、なんだかよくわからないことを彼女に求めては、受け入れられている。私はずぶの素人だし、いろんな映画を観ているわけじゃない。だから、彼の撮りたいそれらの奇怪な行動が、芸術的価値があるものなのかそうでないのか、皆目見当もつかない。ただひとつ言えるのは、彼の作品は一度も賞をとったことがないということだけだ。

今回は彼女がヒロインで(もちろん彼女以外がヒロインの作品を撮っているところを私は見たことがない)、なにやらショートケーキを踏みつけるシーンを撮りたいらしかった。いったい話がどう転がったらそんな場面が生まれるのか、脚本を何本か書いたことがある程度の経験しかない私にはさっぱりわからないが、とにかく彼女がヒールでケーキを踏んづけることだけは決まっているらしかった。その証拠に、彼女が何度も話の筋を確認しているというのに、彼の答えは要領を得ていない。ケーキ、かかと、無垢な笑顔。彼はまるでその3単語しか知らないロボットみたいに、ワンシーンを繰り返し繰り返し熱っぽく語り、そのたびに彼女は、「で、私の役はなんて名前なんですか。」と繰り返し訊くのだった。

 

さて、私がそんな映画監督気取りの彼を日がな注視しているのは、彼のことが好きだからなんかではないということを言っておかないといけない。だいたい、眼鏡をかけている男は好きになれない。8月なのに半袖シャツを着ないで長袖をまくっているのも気に入らない。好きなんかではないのだ、本当に。では、なぜこんなに熱心に話を追いかけているのか。

花の刺繍の入ったぺたんこの靴。腰骨のかたちを拾わない、ゆるいシルエットのワンピース。小さな白いファーストピアス。茶髪から染め直した青っぽい黒髪。彼女は彼にはもったいない。素直にそう思う。赤いピンヒールなんかより、今履いているその靴のほうがずっと似合っていると思う。その足で、ケーキを踏むのではなく、水たまりを飛び越えたらどうだろう、と思う。きっといつものようにドジを踏んで、靴もワンピースもびしょ濡れになるだろう。でも、きっと彼女は無垢に笑うだろうし、ケーキは生ゴミにならなくて済む。そのほうが、私は、あくまで私は幸せだなと思う。

「で、そのシーンからもう撮っちゃおうと思うんだよね」「もう?今から?」「うん。もう用意してあるんだよね。実は」

気持ち悪い男だ。断られたら一人しおらしくケーキをつつく覚悟までしてきたのだろうか?どうせコンビニの安いケーキに決まっている、たいして写りが良くなさそうな。でもやっぱり、彼女は受け入れる。まるでそれが気持ちいいことみたいに、楽しそうに頷くのだ。見なくてもわかる。何度も何度も、飽きるほど見た。

「じゃ、外いこう」

なぜ青空の下ケーキをピンヒールで踏むのか。理解できない。さぞ高尚な作品なのだろう。どうせ趣味の悪い靴を用意してきたに違いない、彼女に似合うどんな靴を持ってきたのか、

と、硝子に何かがぶつかる。

「すずめだ。」

気づけば、ふたりは私の前にいて、窓から身を乗り出し、ベランダで気絶している鳥を眺めていた。

「生きてる?生きてるかな」「死んでるかもね」「気絶してるだけじゃない?動いてるし」「あ、ねえ、話したことあったっけ、俺昔、鳥飼ってたことあってさ…」

私は、振り返って、机の上に小さなケーキを見つけた。やっぱり黄桃、それも缶詰のが乗った安いケーキだ。偉そうなことを言うなら、苺ショートくらい用意すればいいのに。彼女には、それが似合うとどうしてわからないんだろう、そう思うと、頭に血が上った。ケーキを掴んで、床に叩きつけたい、と思った。ケーキがぐちゃぐちゃになれば、ふたりもいつかぐちゃぐちゃになってくれるんじゃないかと、まったく理性的でないことを思った。そして、私は絶対に手を汚したくない、とも思った。私はふたりにとって、存在していないのと一緒だ、ということを忘れてはならなかった。オレンジと白が混ざっても汚いだけだ。混ざるなら、赤と白でなくてはいけない。汚いということを、彼も彼女も知るべきなのだと思って、私は、静かに机を傾けた。