ねるまで昼

おいしいクッキーだけ

あるけない

まっすぐ歩くのは難しい。誰かと歩くのも難しい。誰かとまっすぐ歩くのは、きっととんでもない困難だろう。わたしはいま、悪魔の役をもらった女優の気持ちで街を歩いている。足元を見下ろす。爪先がはげた靴を履いていると、だらしなく見られるらしい、とだれかが耳の奥で言う。

自分の足元を見てすぐに、あの人の切り取られた足を見上げるたび、喉の奥がぎゅっと締まるような気がしたことを思い出す。わたしは何度もその感覚を重ねた。そして想像した。腰のしなり腕の置き方首の角度目の色、壁に隠されてなにひとつ定めることはできなかったけれど、想像している間は、自分もまるで生きているようだと思えて、なんだか良かった。ほんとうは、なんだか良かったと言いたかった。でもその人には(想像でしかないが)耳がなかったし、わたしには(こちらは正しいことだが)声がなかった。なので、これは音のしない妄想である。

声こそないものの、わたしは喉も舌も、さらに鼻も持っていたので、それが金属の味のするやわらかい液体だということはわかった。それが流れ込んでくるのはいつもおなじタイミングだった。間違えば罰される。手が振り下ろされるたびに、身体の中がぷつりと切れた。この間も、わたしは生きているようだなあ、と思えた。

膝と、つま先の向きしか、その人の表情を想像する方法はなかった。わたしは、ずっとずっと見上げていた。変拍子の曲を聴いて、そのリズムが掴みきれないときの、迷子みたいな顔を見たいと夢想した。わたしを見てほしいと思った。でもわたしは、その人の目も鼻も口も耳も知らなかった。知ろうともしなかった。知ったら壊れるとわかっていて、わたしは壊れることが恐ろしかった。でもいま、壊れている自分の指先をみると、あのとき壊れればよかった、と思う。同じく壊れるなら、彼の温度を知って壊れるべきだった。

もう遅い。靴を履き替えなければいけない。もう歩けない気がするけど、わたしは悪魔なので、飛ぶように歩かないといけない。ふらふら歩いて、そのうちたぶん、わたしの部屋のドアを叩きます。あなたはどうかお元気で。眠ったころに思い出します。