ねるまで昼

おいしいクッキーだけ

分かったつもりで

階段下収納に悪魔を飼いはじめて、もう半年になる。名前はない。あんまり喋らないし、男なのか女なのか、べつに性別とかはないのか、知らない。たまにポン菓子をあげると喜ぶけれど、夜行性なので昼間はずっと眠っている。わたしは夜眠ることにしているので、生活時間が被らず、いまだにその生態を掴みきれていないのだ。

もしかしたら自称「悪魔」のヤバい人間なのかもしれない。と思う。階段下に他人が住んでいるのは人間だろうとそうでなかろうとそこそこ怖いし、大家さんにバレたら大変なことになる気がする。でも、わたしはひとりでいるのが大嫌いだ。夜眠るのに、だれかの気配を感じていないと不安で仕方ない。と同時に、とんでもない面倒くさがりでもある。まめに他人とコンタクトを取ってご飯を食べて一緒に暮らして、なんて想像しただけでめまいがする。ペットを飼えるような人間じゃない。だから、たいして喋らず食べ物をあげる必要もない「悪魔」はわたしにとって都合がよかったのだ。

一緒に暮らしている、ではなく飼っている、なのは、本人がそう言われることを望んでいるからだ。首輪をつけてほしいというのでペットショップで適当にあたりをつけて、深い緑色の革の輪っかをプレゼントした。たしか犬用だったように思うけど、もう覚えていないし、そんなことはどうだっていい。大事なのは、彼(あるいは彼女)がわたしを主人と呼ぶことだ。同棲とか同居とか、そういう言葉もあるのよと教えてあげたのに、それは気に入らなかったらしい。わたしの言いなりになる代わりに、なんの責任も負いたくないのだという。悪魔が背負う責任って、なんだかとっても重そうなので、わたしはひとこと「わかった」と言って、その関係をみとめた。

彼(ないし彼女)を飼い始めても、わたしの生活はほとんど変化しなかった。朝起きて、パンを焼いてインスタントのスープに浸して呑み込んで、なぜかいつも違う場所に落ちている鍵を探して拾い上げて出かけて、コンビニのサラダと固くなっているおにぎりを食べて、帰ってきて鍵を開けて(この時点ではいつも同じ場所に置くつもりなんだけど、やっぱり朝になると見つからなくなる)、風呂にお湯をはっているあいだに皿を洗って、適当に夜をやりすごす。愛すべき普通、安寧、安定した暮らし。起きた変化はただひとつだけ、毎晩悪夢に苦しむようになってしまった。息ができない、殺される夢を見る、なんてまだかわいらしくて、昨日会ったばかりの人と寝る夢、もう何年も会っていない昔の恋人が事故に遭う夢、そういう妙に生々しくて、起きたとき身体が重くなっているような夢ばかり、毎日繰り返し見る。荒唐無稽な設定の夢なら、朝日を浴びればリセットできるのに、ありえなさそうでありえそうな夢だとそれがままならない。わたしはあの人と寝たんだろうか、とか、彼はいま結婚していたはずだけど、家族は、とか、馬鹿みたいにぼんやり考えていると、午前中が終わってしまう。

生活に影を落としそうだ、と思って、一度「悪魔」に訊いたことがある。夜中に起きだす彼(彼女)に合わせるため、金曜の夜に水風呂に入りながら起きて待った。

「ねえ、あんたが見せてるの?」

「なんの話?」

「ここのところ毎晩、なんだか妙な夢ばかり見る。あんたが来る前は夢なんか見ないほど眠れていたのに」

「それ、嫌な夢?」

「え?」

「嫌な夢なの? わたしは、お手伝いすることしかできないけど」

「何を手伝うって?」

「ひとりは寂しいんでしょう。夢の中くらい、だれかと寝たっていい。いまだに許せないんでしょう。だったら痛い目見せればいいだけ。かんたんでわかりやすくて、それって幸せでしょう?幸せになろうよ

「あんたがやってるなら、早くやめてね。仕事ができなくなる」

「じゃあ今夜が最後ね。いちばんいいやつ見せてあげる。ずっと飼い主でいてね」

その晩、わたしは夢を見た。わたしは、階段下で誰かの足音をきいた。細いかかとの音、やわらかい布の音。それから服の擦れる音。誰かの苦しそうな声を、泣きそうな声をきいた。そのままわたしは、暗がりでじっと座っている悪魔に手を伸ばして、その首輪をひっぱった。「ねえ、いちばんいいってこんなもの?」悪魔は首を振った。「まだだよ」わたしは、誰かの声をきいた。誰のものかはわからないけど、言葉だけははっきり届いた。「あの子、死んだんだってね」わたしの名前を呼ぶ声がして、瞬間、すべてわからなくなった。

 

もうなにも憶えていられないと思う。だからぜんぶジュースみたいにぐちゃぐちゃにして絞って、残ったものだけ瓶に入れないといけない。時間がないの。急いで首輪を買って、ちゃんと靴紐は結んで、走ってもはぐれないようにして。