ねるまで昼

おいしいクッキーだけ

冷や汗をかく

「全部偽物です。だから気持ち悪いんです。」

食品サンプルを見るのが好きだ。やっているのか怪しい中華料理店のテカテカしたチャーハン、なぜかフォークが浮いているイタリア料理店のパスタ、泡まで固められた喫茶店のクリームソーダ。ケーキの断面や麺の光沢まで再現していて、樹脂でできているとは信じがたい出来のものばかりだ。当然食べられないのだけど、ときどき私は、本物よりこっちを食べたい、と思うことがある。ソフトクリームの完璧な形のてっぺん。うどんのつゆから半分だけ顔をのぞかせるかまぼこ。パフェにかかるチョコレートソースのとろけた部分。本物の一番魅力的な瞬間を閉じ込めたサンプルたちは、次の瞬間崩れてしまう本物よりずっときれいだ。大袈裟な言い方に聞こえるけれど、そこに永遠が存在する、と思う。味を知るために食べるのではない。私は、美しいかたちを知りたくて食べるのだ。だから、溶けて混ざってばらばらになっていく本物にがっかりするより、隙のない偽物を一口で食べるほうがきっと、幸せなのだと信じている。

彼女はバターがホットケーキの表面を滑り出すのをじっと見つめていた。溶けきるまで放置する主義らしい。「バターにもバターなりの意志があります。」それが彼女の言い分だ。バターの行く先をフォークで定めることは、神を冒涜することと同義なのだと言う。「なんの神様?」「わたしの神様です。」深入りするのはやめておくべきだと判断した私は、窓の外を見遣る。青信号が点滅する大通りの横断歩道を、学生服を着た少年が走っていくのが見えた。私は目を閉じた。

どうして見知らぬ彼女と美しくかさなったホットケーキを囲んでいるのか。それを説明するには数時間ほど遡って話さなければならない。私は今朝、電車でこの街へやってきた。この街は数え切れないほど訪れているが、明るい時間に出歩いたことはこれまでなかった。こんな晴れた日に何もしないのはもったいない。昼過ぎに用事があるから、それまで街じゅうの食品サンプルを見て回ろうと思い立ったのだ。全国チェーンのファミリーレストラン、まだ開店していない寿司屋とまわり、この喫茶店にたどりついた。ガラスケースは埃をかぶっていたが、中のサンプルたちは劣化していなかった。オレンジジュースには赤と白の縞模様が入ったストローが刺さっている。上の段から舐めるように眺めて、ケースの最下段、左端にホットケーキを見つける。きつね色で丸いケーキが五枚重なっている。これだけなら他の店とたいして変わらないのだけど、私はその上に乗ったバターとシロップに釘づけになった。あめ色とクリーム色がきれいに溶けて、いびつに広がっている、まるで宣材写真のような、ホットケーキと言われて誰もが思い浮かべるような完璧な姿だったのだ。もしかして食べられるのではないか、と思い見つめてしまうほどに。もちろん何秒、何十秒、何分眺めてもそれは完璧なままそこにあった。そのことに言いようのない満足感を覚えた私は、しかし見知らぬ女に話しかけられ、ふと我に帰る。「もしかして、ホットケーキ食べにこられたのですか」「え?」「もしよかったら、一緒にいかがですか。半分ずつ」

聞けば、彼女は無類のホットケーキ好きで、いつかこの店のものを食べてみたかったのだという。たしかにひとりで食べるには少しためらわれるボリュームだ。あなたはホットケーキを熱心に見つめていたので、と言われたから、おそらく自分と同じ種類の人間だと認められたのだろう。食品サンプルに興味があるだけなのだとは言えず、奇遇ですねなどとうそぶきながら彼女と向かい合わせに座っている。バターはまだ溶け切らない。「誰かの行先を決めようだなんて、傲慢だと思いませんか。」厄介そうな話だが、曖昧に笑って続きを促す。「だから、バターのことはバターに任せるんです。わたしはわたし、バターはバター。」「ナイフを入れるのは、だけどあなたですよね?」「ええ。わたしのことはわたしが決めます。」「シロップはどうするのですか?」「こんなときのためなのです。」彼女はいたずらっぽく笑った。目が合う。逸らされない視線、視界の片隅で彼女の着るラベンダー色のカーディガンがぼやける。「私ですか?」「はい。わたしはあなたに頼みたい、と決めたのです。」

バターの染み込んだケーキにシロップを垂らす。広がる、広がって側面を伝ってさらに落ちる。バターは跡形もない、白い皿が糖で汚れていく、やはり美しさのかけらもない、と思う。知らぬうちに私は、ジャケットの裾を握りしめていたことに気づく。彼女は嬉しそうに礼を言ってナイフを持ち、小皿にケーキを取り分けていく。黄色っぽい生地の断面がぼろぼろと崩れていく。破片が皿にこぼれ落ちる。切り取った扇型のケーキで皿のシロップを撫でる。シロップが皿に塗りつけられていく。もう何も聞こえない。食べないと怪しまれる。なんとか自分の小皿に取り分け、フォークを入れる。目を閉じて咀嚼する。のみくだす。目を閉じると、周囲で食器がぶつかり合う音が耳の奥に響く。耐えられない。「すみません、バター、もらえませんか。」店員を呼ぶ彼女の声がする。私は落ち着こうとフォークを置いて目を開ける。瞬間、目にしたのは、バラバラになったケーキと、テーブルクロスに落ちた食べかすと、口いっぱいにケーキをほおばって控えめに笑う彼女の幸せだった。幸せを見ている、としか言いようがなかった。たとえ対象がどんな姿になっても食べ物を食べ物として楽しむことを賛美しているのがわかった。食べることに純粋な楽しみを感じているように見えた。かたちは、崩れてしまっては美しくない。美しくないのに!私はたまらなくなって、財布からお金を取り出すと、ギンガムチェックのテーブルクロスにそっと重ねて、逃げるように店を飛び出した。彼女は全く気づいていないようだった。

崩れることは恐ろしいことだ。それを避けるために、私は今日この街へやってきた。普段は夜だけ、あの子の完璧な姿を愛するためにここに来ていた。だけど、美しくあるべきなのは姿だけではなく結びつきなのだと知った。知らせてくれたのもあの子だった。だから今日は明るいうちに会うのだ。そしてきちんと教えてあげないといけない。完璧な私たちがどれほど素晴らしいのか、完璧でないことはどれほど恐ろしいのかを。べたつく首元をハンカチで拭って、私は地下への階段を降りるため、歩き出した。