ねるまで昼

おいしいクッキーだけ

甘皮を傷つけた、今日

あれはまだ、わたしが今と違う名前を持っていたときで、きみが液晶に触れる指すら持っていなかった夜だった。朝になるのが怖かった。少しずつズラした世界の話を、100円もしない、やたら音のするシャープペンシルで、これまた108円で手に入れた、がさがさしたノートに、虫みたいな細かい字で書いていた。甘いものを、甘いと感じる前に呑み込んで、それからちょっと苦いコーヒーに舌を浸した。馬鹿だなあと思った、知らない名前を持っている自分も、まだ会うことのない色んな人たちも。皿の上でバラバラになった生地も、カップの底にこびりついた黒も、肌の色にあわないスカートも、馬鹿馬鹿しくて話にならない、と思って、泣いて、また壁のほうを向いて横になった。ほんのちょっとでもおかしなことが起こったら、わたしの毎日は壊れてしまうと知っていた。知っていたのに。

時計が動かなくなった。朝だった。起き上がれなくなった。灯りもつかなくなった。ずっと朝なのに、太陽が出ない、夜、を繰り返す毎日が始まった。深呼吸したら、目が、耳が、痛かった。別の名前でわたしを呼んでいた彼は、もう会えなくなった。いなくなってしまったのだ。正確には、いるのだけど、見えなくなった。彼から、わたしが、ということだ。逆なら諦めもつくけれど。ねえ、いまどこにいるんですか?答えはまだ、ない。5年間ずっと。

青いなあ、と思った。自分の手に映る光が、つめたい色だった。なのに外はオレンジ色で、はじめて色鉛筆を使った日のように驚いてしまった。また馬鹿だ。きみの指は、きっと、まだまだ出来上がっていないんだろう。爪も。足も、うでも、きっとまだ、ない。それでも目だけはあるのだ、それをわたしだけが知っている。知っていた。知っていたのに!どうして知っていたのだろう。きみは教えてなんてくれなかった。その目がひとつ、部屋に落ちていただけだ。もしかして、きみはわたしかもしれない。目を拾って、きちんと冷蔵庫に入れてあげたのは、きみが言うには、わたしが熱を出した夜に見た夢なんだそうだ。

きみは新しい名前をわたしにつけた。なんだか似合わないなあ、と思ったが口には出さなかった。あんまり嬉しそうだから。立派に人に名づける頃になっては、さすがにきみもひとつの身体を持っているらしかった。指も。青っぽい液晶を覆ってほしいと思った。目を覆ってほしいとも思った。カーテンを閉めてほしかった。電球がだめになってしまったこの部屋で、時計が止まってしまったこの夜に、なんにも見なくていいと言ってほしかった。

「代わりといってはなんだけど、あなたにこれをあげよう。きっと気に入るよ」

だからわたしは耳をふさぐことにしました。ずっと忘れていましょう、いろんなことを。あなたがわたしを見ていても、誰かがわたしを蹴飛ばしても、目を瞑って、耳を塞いで、ずっとここで黙っていましょう。それしかないのです。あなたがたの話を聞くより、知らない誰かの目を見るより、こうしているほうがずっとずっと、楽なのです。お願いですから、もう二度と、わたしの目を殺さないで。

「息の仕方を教えてくれたから、ずっとこうしていてあげるね」