ねるまで昼

おいしいクッキーだけ

牛乳に浸すだけ

  長方形では邪魔なものが写ってしまうから、正方形に切り取らないといけない。たとえば汚い部屋、たとえばあまり美しくない友人、たとえば憧れの気持ち。僕は、まわりをすべて線で囲まれている君に恋をした。黒目が大きい君に、肌の白い君に、脚の切れた君に、触れる日のことを想像して、それだけで窓の外にあるひかりが目の前に広がったような気持ちになった。僕はまだ、自分の指も十分に動かすことができない。

 四角い君しか知らなかった。丸でも長方形でもなくて、正方形の君だけを知っていた。みんなは足りないと言ったけど、私には十分だった。窮屈そうな君は、自分で思うよりもずっと、たくさんのことを私に伝えようとしていた。そうでなければ、こんなにわかりやすく、整然と、君の世界を並べるはずがない。ちゃんとわかっているから安心して、と毎晩夢に君を見ながら、思った。

 名前は記号でしかない。だから、文字列が君、という意味をなした瞬間に、僕は言葉を捨ててしまった。もはや取り戻すこともできない、それくらい、丸い君は、熱は、風は、ひとつの塊になって転がった。言葉を失くした僕は、正方形が広がっていくような模様をまぶたの裏側に認めながら、糸が切れそうなシャツのボタンをなぞった。

 息をしている。君は、今日も、生きている。私は君のことを知っている。だいたい知っている。その袖のボタンを色のついた糸で縫いつけていた日も、縫いつけたのがあの子だってことも、知っている。知らせてくれたから知っている。もっと色んなことも知っている。プロフィール帳を代筆できるくらい。でも、私は君の目の色を知らない。笑うと細くなる目、まぶたが瞳を隠してしまうから、その色を見ることができない。見たい、と思うのと、君がまぶたを閉じる瞬間が重なって、カーテンが揺れる音も止まった。こんな感覚って、ない。

 一人になりたいと思った。

 何も見たくなかった。

 見たいものだけを並べて、編集して、引き出しの中にそっとしまっておきたかっただけなんだ、と気づくのが遅すぎた。僕は、

 私は、今夜きっとすべてを知ることができると思った。

 四角く切り取られた君を偏愛していた。

甘皮を傷つけた、今日

あれはまだ、わたしが今と違う名前を持っていたときで、きみが液晶に触れる指すら持っていなかった夜だった。朝になるのが怖かった。少しずつズラした世界の話を、100円もしない、やたら音のするシャープペンシルで、これまた108円で手に入れた、がさがさしたノートに、虫みたいな細かい字で書いていた。甘いものを、甘いと感じる前に呑み込んで、それからちょっと苦いコーヒーに舌を浸した。馬鹿だなあと思った、知らない名前を持っている自分も、まだ会うことのない色んな人たちも。皿の上でバラバラになった生地も、カップの底にこびりついた黒も、肌の色にあわないスカートも、馬鹿馬鹿しくて話にならない、と思って、泣いて、また壁のほうを向いて横になった。ほんのちょっとでもおかしなことが起こったら、わたしの毎日は壊れてしまうと知っていた。知っていたのに。

時計が動かなくなった。朝だった。起き上がれなくなった。灯りもつかなくなった。ずっと朝なのに、太陽が出ない、夜、を繰り返す毎日が始まった。深呼吸したら、目が、耳が、痛かった。別の名前でわたしを呼んでいた彼は、もう会えなくなった。いなくなってしまったのだ。正確には、いるのだけど、見えなくなった。彼から、わたしが、ということだ。逆なら諦めもつくけれど。ねえ、いまどこにいるんですか?答えはまだ、ない。5年間ずっと。

青いなあ、と思った。自分の手に映る光が、つめたい色だった。なのに外はオレンジ色で、はじめて色鉛筆を使った日のように驚いてしまった。また馬鹿だ。きみの指は、きっと、まだまだ出来上がっていないんだろう。爪も。足も、うでも、きっとまだ、ない。それでも目だけはあるのだ、それをわたしだけが知っている。知っていた。知っていたのに!どうして知っていたのだろう。きみは教えてなんてくれなかった。その目がひとつ、部屋に落ちていただけだ。もしかして、きみはわたしかもしれない。目を拾って、きちんと冷蔵庫に入れてあげたのは、きみが言うには、わたしが熱を出した夜に見た夢なんだそうだ。

きみは新しい名前をわたしにつけた。なんだか似合わないなあ、と思ったが口には出さなかった。あんまり嬉しそうだから。立派に人に名づける頃になっては、さすがにきみもひとつの身体を持っているらしかった。指も。青っぽい液晶を覆ってほしいと思った。目を覆ってほしいとも思った。カーテンを閉めてほしかった。電球がだめになってしまったこの部屋で、時計が止まってしまったこの夜に、なんにも見なくていいと言ってほしかった。

「代わりといってはなんだけど、あなたにこれをあげよう。きっと気に入るよ」

だからわたしは耳をふさぐことにしました。ずっと忘れていましょう、いろんなことを。あなたがわたしを見ていても、誰かがわたしを蹴飛ばしても、目を瞑って、耳を塞いで、ずっとここで黙っていましょう。それしかないのです。あなたがたの話を聞くより、知らない誰かの目を見るより、こうしているほうがずっとずっと、楽なのです。お願いですから、もう二度と、わたしの目を殺さないで。

「息の仕方を教えてくれたから、ずっとこうしていてあげるね」

透明

短いスカートは高校時代に一生分はいた。涙は一年間で数年分を使い切った。じゃあこれはどれくらいで終わりが見えるんだろう。あの人なら答えを知っている気がした。

チョコレートパフェをつついているときだけは自分を忘れられる。ベタベタに甘いしマーブル模様のアイスは綺麗だし、グラスを通して見る君はぼやけている。目が合うと息が止まるので、眺めているだけでいい。嘘。わたしを見ていると思った瞬間に自分のことを思い出してしまうから、見ていたいというだけだ。

「ね、やっぱ言う通りにしてよかったでしょ」

得意げな顔をする君は、いつもわたしよりはやく食べ進める。どんどん層が崩れていく君のパフェは、ついに細いスプーンがいちばん下のフルーツソースに届くか、というところまで混ざっていて、あまり綺麗じゃない。混ざらないほうがいいと思う。混ざったらわからなくなってしまうから、もとの色とか、味とか、形も。

「そうだけど。決めたのはわたしだから」

すぐ言い負けるのはわたしの良くないところだ。君のすごいところとも言えるかもしれない。

「絶対うまくいくって思ったんだよね、よかったよ」

「ありがとう」

気持ちのこもってない言葉はあまりにも嘘っぽくて悲しくなる。ごめんね。そう、わたしが言いたいのはありがとうじゃなくてごめんねだった。次の言葉がすぐ出てこない。

「もう会わないほうがいいよ」

ひとりごとみたいに言った君は、わたしのグラスを注視する。たいして食べないうちに溶け出したアイスがグラスを伝って落ちる。指に触れる。べたついた指を水の入ったコップにあてる。冷たさがこの惨めさをほんの少しだけ軽くしてくれる、と思って縋る。自分の言葉が誰かを規定したと思い込むひとは、厄介だ。そこにあるのはわたしのことを真剣に考えてくれる優しさと正しさで、そんなものの前ではわたしのつまらない気持ちなんて意味がなくなってしまうから。ちゃんと言葉を声にしても、震えてうまく伝わらない。後ろめたいからなのかもしれない、本当は。

「わかってるから」

きっとまた繰り返してしまう。同じところに戻って同じことをしてしまう。君は今度こそわたしに愛想をつかすかもしれない。助けてあげるって手を差し伸べてくれなくなるかもしれない。呆れられてしまうな、という確信がある。でも、やめられない、他の何にも代えられないことがあるんだから。君にそう言ったらどんな顔をするだろうか。案外あっさり理解してくれるかもしれない。でも怖くて、このままでいたくて、痛くて、言えない。

「それならよかった。今度こそあたらしく、うまくやっていけるといいね」

なかば液体になってしまったチョコレートとバニラアイスを混ぜる。混ざる。色が同じになって、わからなくなる。わたしを知って、それを大切にする君を知ってしまったら、もうわけることができない。なら早く、戻りたくなる地獄を忘れたい。忘れさせてほしい。また嘘をついてしまう。わたしがわたしのままならこんな気持ちにならなくて済んだのに。混ざったら綺麗ではいられないことを君は知らない。あの人ならたぶん、知っていると思う。